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Munemasa Takahashi Close

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Skyfish

宗正君のこと

去年の四月、久しぶりに遊びにきた高橋宗正君が、来年の春あたり、初めての写真集を出版してもらえそうなので、それに添える文章を書いてくれと言う。喜んで引き受けたのはいいが、写真についてはまったくの門外漢、宗正君に作品を見せてもらっても、情けないことに、きれいだねとか、これはなにを撮ったのとか、面白い映像だねとか、まるで子供のような感想しか述べられない。

仮にも哲学を専攻してきたのだから、映像文化についてもう少し確固たる意見を持っていてもよさそうなものだが、ここでベンヤミンの複製芸術論の受け売りをしてもしかたがない。写真の話はあきらめて、宗正君のこと、宗正君と私の関係などについて書くことにしよう。

宗正君と初めて会ったのは四年ほど前、ある雑誌のインタビューに宗正君がカメラマンとして隨(ふりがな「つ」)いてきたときである。半年ほどして、また別の雑誌のインタビューでも宗正君がカメラマンだった。別に偶然というわけでもない。同じ小さな出版プロダクションが大手出版社のいくつかの雑誌の特定の欄の下請けをしているとすると、雑誌は違っても、インタビュアーやカメラマンが同じということが起こりうる。ましてや、そのプロダクションの主宰者と私とが旧知の仲ということになれば、時どきそうしたインタビューの声がかかってきても不思議ではない。宗正(ふりがな「ムネマサ」)君という呼び名も、そのときそのプロダクションの連中が使っていたものだ。しばらくはそういう姓だと思っていた。

二度目のインタビューの一月ほどあとだったろう、宗正君から電話があって、その時の写真で、雑誌には使わなかったけれどよく撮れたのがあるので届けたいと言ってきた。ぜひおいでということになり、近所の喫茶店でおしゃべりをしたり、近所の洋食屋で特大のステーキをごちそうしたりした。

その後も、こんな八十歳を過ぎた老人のなにが気に入ったのか、半年に一度くらいのわりで電話をくれ、こちらの都合に合わせて遊びにきてくれるようになった。私たち夫婦も、時たま「近ごろ宗正君から電話こないね。どうしているのかな」などと心待ちするようになった。息子というより孫の世代に近い、親戚の子のような感じである。

といって、宗正君はけっして人の迷惑を気にしないような、押しの強い若者ではない。むしろ極度に控え目なおとなしい青年である。いや、少しおとなしすぎるとさえ思っていたのだが、このあいだきたとき、ポツリポツリとこんなことを話していった。

宗正君はしばらく前に、まだお若かった父上を亡くしてから、あまり積極的に生きたいと思わなくなっていたが、やっと近ごろ、生きているのもいいかな、もう少し生きてみるのも悪くはないかと思えるようになってきた、というのである。私がおとなしさと思っていた宗正君の生きる姿勢の秘密が少し分ったような気がした。

宗正君は二十九歳になったそうだが、その歳ごろで作品集を出してもらえるというのは、私たちの若いころと比べて、ひどく幸運に思われる。私が哲学の勉強をしていたころは、いまと違ってのんびりした時代だったせいもあって、大学院では五年かけて一本だけいい論文を書けば、それでよかった。その間ゆっくりといろいろな本を読むことができ、これはこれで恵まれた状態ではあるのだが、自分の内にあるのかないのかよく分らない能力を自分だけで信じながら、ひたすら読むだけの生活を送るのも大変なものなのだ。自分で支えるしかない自信ほど、不安で始末の悪いものはない。五年かけてやっと書き上げた論文を雑誌に載せてもらってはじめて、その自信にいくらか裏付けが与えられることになる。

してみれば、単なる可能性として内にあったものが外に現れ出て、物の形をとって現実に存在するようになり、自分の目や他人の目にさらされるということはとても大事なことなのだ。その点で宗正君たちの仕事は、そのつど能力が外化されて物としての形をとり、自分や他人の目に映る。才能の有無は一目瞭然であろう。ましてやその作品が一冊にまとめてもらえるということは、その能力にある保証が与えられたということである。私たちまでうれしくなる。

宗正君がいっそういい写真を撮って、カメラマンとして大成し、力強く生きていってくれることを心から楽しみにしている。

二〇一〇年一月二十一日
木田元